奇跡講座の学習者のよくある間違い レベルの混同 Part 4 ケネス・ワプニック Ph.D.
Seek Not to Change Part 4
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https://www.youtube.com/watch?v=Q0OHfQBca2s
レベルの混同というテーマについて、別の側面をお話ししてもよろしいでしょうか。
他の例を挙げて説明いたします。 私が重要だと考えるのは、「怒り」と「病気」という2つの概念です。
『奇跡講座』ではご存知の通り、「病気とは真理に対する防衛である」と教えられております。そして、病気は身体の問題ではなく心の問題であること、また痛みも同様に身体のものではなく、心に起因しているとされています。
実のところ、「病気」と「怒り」は同じ原理に基づいているため、ひとまとめにして考えることができます。『奇跡講座』ではさらに、「怒りは決して正当化されない」「私たちは自分が思っている理由では動揺していない」「私が他者に怒っているように見えても、実際には自分自身に怒っているのだ」と教えています。
しかしながら、この教えがしばしば誤って解釈され、「怒りは正当化されない」「病気は真理に対する防衛である」ということから、「私は怒っていない」「私は一時間に十回くしゃみをしているけれども、それでも病気ではない」と言うことがあります。「私は身体ではない」「だから病気ではないのだ」と。
けれども、こうした理解ではうまくいかないことが多く、多くの「否認」につながってしまいます。
『奇跡講座』が示すように、また優れた心理学者であれば、誰しもが語るように、「否認されたもの」は、投影という形で戻ってまいります。そして、その姿は私たちが容易に認識できるものとは限りません。 そもそも、私たちがこの世界に身体を持って生まれてきたという事実自体が、「私たちは罪を感じている」ということを物語っています。なぜなら『奇跡講座』では、身体とはエゴの具現であり、エゴの中核には罪悪感があるとされているからです。すなわち、私たちが身体を持ってこの世界に存在しているという事実自体が、「罪悪感がある」ことを意味しているのです。
また、『奇跡講座』は「心にあるものは必ず投影される」という原則を説いています。つまり、心に罪悪感が存在し、それが必ず投影されるのであれば、投影先は2つしかありません。他者の身体に投影すれば、それは「怒り」として現れ、自身の身体に投影すれば、「病気」として現れます。ほかに選択肢はないのです。
ですから、私たちが怒りを覚えたり、病気になったりすることは、避けようのないことだと言えるでしょう。 「レベル2」の理解としては、そうした怒りや病気を、「学びの機会」として捉えることです。つまり、罪悪感を外側の何かに投影したことを通して、それを見直し、手放すチャンスを得るということです。
もし私たちに「特別な関係」がなければ、聖霊が癒しの働きをなすための機会は存在しないかもしれません。ですので、最も顕著なレベルの混同は、「怒りは正当化されない」「病気は幻想である」というレベル1の原理を、私たちがこの現実世界に生きているという前提のまま、「だから私は病気ではない、怒ってもいない」と結論づけてしまうことだと考えます。
このことはまた、「聖霊に助けを求めること」にも関連します。実際、私どもが各地を訪れる中で、ここには非常に大きな問題があると感じています。幸いなことに、これはたしか『教師のためのマニュアル』のどこかに書かれていたと記憶していますが、「神の声を直接聞くことができる人は非常に少ない*」と明記されています。このことは、常に心に留めておくべきでしょう。
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*訳注:M.12.3
なぜ多数という幻想が必要なのだろうか。 その理由は、単に妄想に惑わされている者にとって実相は理解できるものではないからである。 神の声をわずかでも聴くことができるものは極めて少数であり、その彼らでさえ、神からのメッセージを自分に与えた例を通して直接それらのメッセージを伝達することはできない。 自らを霊であると悟っていない者達へのコミュニケーションを可能にするような媒体が必要になる。 即ち、彼らにも見ることのできる肉体である。 そして、真理が彼らの中に浮上させることになる恐れを介さずに、彼らが理解し、耳を傾けることのできる声である。 恐れずに歓迎される場所にのみ真理は入ってこられるということを忘れてはならない。 同様に彼らの一体性はじかに認識される事は不可能なので、神の教師には肉体が必要である。
Why is the illusion of many necessary? Only because reality is not understandable to the deluded. Only very few can hear God's Voice at all, and even they cannot communicate His messages directly through the Spirit which gave them. They need a medium through which communication becomes possible to those who do not realize that they are spirit. A body they can see. A voice they understand and listen to, without the fear that truth would encounter in them. Do not forget that truth can come only where it is welcomed without fear. So do God's teachers need a body, for their unity could not be recognized directly.
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何千年もの間、条件づけられてきた心を持っている私たちが、突然『ワークブック』のレッスン「神の声は一日中私に語っている」を実践し、その場で声が聞こえてくるというのは、現実的とは言えません。そのようには機能しないのです。
おそらく『奇跡講座』や『ワークブック』が目指しているのは、「聖霊」という存在が心の中に常に存在していることを認識し、いつでもそこに助けを求めることができるということに気づくことではないかと考えます。
しかしながら、それには日々の練習と、心の働きをよく見つめる努力、そして真の識別力が必要です。『奇跡講座』が私たちに警告しているように、エゴは聖霊のふりをするのが非常に得意です。結果として、私たちは「神の声を聞いている」と思い込みながら、実際にはエゴの声に従って行動してしまうのです。
これは容易に見分けられるものではありません。 たとえば、コンサート・ピアニストがニューヨークのカーネギーホールで演奏するまでに、何年も1日8時間の練習を重ねるように、私たちもまた、精神的な鍛錬が必要なのです。
そして、たとえわずかでも何らかの結果に対する執着が心にあるならば、そのとき私たちはおそらく聖霊の声を聞いてはいないでしょう。むしろ、自分の願望を聖霊に語らせている可能性が高いのです。
この点については、本当に注意が必要です。私自身、非常に極端な例を耳にしたことがす。たとえば、「自分が性的暴力を受けたのは、赦しの学びとして聖霊がその出来事を与えたのだ」と語った方がいました。しかしながら、聖霊がこの世界におけるレッスンをセットすることはありません。なぜなら、この世界は実在しないからです。そのような理解は、私たちが最初に犯した誤りを繰り返し、強化することになってしまいます。
聖霊は駐車場を探してくれるわけではありませんし、郵便で小切手を送ってくれるわけでもありません。恋人を引き寄せてくれるわけでもなく、そういったことには一切関与しません。
こうした誤解は、『奇跡講座』とニューエイジ思想を混同してしまうことから生じるのです。聖霊は、「豊かさ」や「繁栄」といった世俗的な概念を使うこともありません。
私たちの心は非常に強力で、この世界やその中のすべてを創り出したほどですので、豊かさが欲しいと思えば、それを実現することは可能です。しかしながら、『奇跡講座』が語っているのはそうした「物質的豊かさ」ではなく、「王国の豊かさ」、すなわち「愛」です。
愛を与え、受け取ること。この愛は、自らがそれを持っており、なおかつ聖霊を通してその愛が流れてくるときに初めて与えることが可能となるのです。
この点は、全ての人が陥りがちな大きな落とし穴であるため、心から注意を喚起させてください。 私自身も経験がありますし、『奇跡講座』に取り組まれたすべての人が、少なくとも一度はこの罠にはまっていることでしょう。
自分の人生の台本について、ほんのわずかでも「こうあってほしい」といった思いがあれば、その時点で「これは聖霊の声だ」と思い込みやすくなり、他人にまで「その声が伝えたメッセージだ」と言い始めてしまいます。これでは完全にエゴの罠に落ち、罪悪感をさらに強化することになってしまいます。なぜなら、真理を否定しているからです。そして真理を否定することは、罪悪感をより一層強めるのです。
そのため、私が常に心の中で実践しているのは、「赦し方を教えてください」と聖霊にお願いすることです。これは、私自身にとっても、そしてこの世界にとって、最も必要なことであると、『奇跡講座』は語っています。それゆえ、私は日々の実践を通じて、この赦しに集中します。学びのレッスンは、毎秒、毎分、やってくるのです。
たとえば、朝に素晴らしい瞑想を行ったと思ったら、部屋を出た途端にすべてが崩れ始める…そのようなときこそ、聖霊に助けを求めるべき瞬間です。
そして、声が聞こえなくても大丈夫です。何か考えが浮かぶこともあれば、直感やひらめき、予感があることもありますし、まったく何も感じないこともあるでしょう。
「神の声は一日中私に語っている」といったレッスンを文字どおりに受け取り、それを「聖霊の声を聞くことは簡単だ」と結論づけてしまうと、そこから「実はエゴの声を聞いていた」、または「何も聞こえない自分は失敗者だ」といった誤った思い込みに発展してしまう可能性があります。
さらには、周囲の方々が「聖霊がこう語ってくださった」と語るのを耳にして、「なぜ自分だけ何も得られないのか」と自責の念に駆られてしまうこともあるでしょう。そのようにして、本来『奇跡講座』が取り除こうとしている罪悪感が、むしろ強化されてしまうのです。