Northern bear spirit

気づいたこと、奇跡講座、ワーク、哲学、スピリチュアル

ワプニック夫妻による実相のワークショップ Introduction

ワプニック夫妻による実相のワークショップ Introduction

Intro -- Workshop on "The Real World"
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=jxqLe4IW7lw

実相のワークショップ 全15回

 

導入

Gloria: FACIMへようこそ。今日のテーマは「実相(real world)の獲得」です。ご覧いただいている図表は、今日のプレゼンテーションを通して最終的に説明していきます。

プレゼンテーションの中では、講座の様々な箇所を引用しながら説明しますが、必要に応じてページ番号もお伝えしますので、該当箇所を開いて参照することも可能です。

Kenneth: 講座における言葉遣いについて、最初に一言だけ申し上げます。これは何度も議論になる問題で、今回のワークショップでも再び取り上げられるでしょう。

エスは講座を、研究者というより芸術家として書きました。そのため、言葉の使い方が必ずしも一貫していないように見えることがあります。彼が教えていることの形式、つまり彼が使用する用語(実相という言葉を含む)は、常に正確な方法で使用されているわけではありません。講座が言っていることを文字通りに解釈しようとすると、混乱するかもしれません。しかし、これを研究論文としてではなく、偉大な詩を読むように読めば、混乱を避けることができます。

 

抵抗  ケネス・ワプニック Ph.D.

抵抗  ケネス・ワプニック Ph.D.

Resistance
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=6LZRAhoJkCs

今日のテーマは「抵抗」です。これは『奇跡講座(A Course in Miracles)』を理解するうえで最も重要なテーマの一つです。それは、このテーマが頻繁に語られているからというよりも、それが示唆されていることが多く、そして何より、私たちがなぜこの講座を学び、その原理を実践することにこれほど苦労するのかを理解する助けになるからです。

確かに、『奇跡講座』に取り組む誰もが、ある種のコミットメント(約束)をこの講座とその教えに対して行っています。だからこそ、それを実際に実践し、判断を手放すことができないことが、より一層難しく感じられるのです。100年以上前にフロイトは、患者たちが回復しない現象を初めて「抵抗」として語りました。

彼はなぜそうなのか理解できませんでしたが、ある日夢を見ました。その夢の中で非常に明確になったのは、ある特定の患者が良くならない理由は、その患者自身が良くなりたくなかったからだということでした。そして彼は、「抵抗」を分析することが治療の重要な一部であると認識しました。

これは、『奇跡講座』に取り組む私たちにとっても非常に有用な例です。私たちの中には、夢から目覚めて故郷に帰りたいと誰よりも強く望んでいる部分がありますが、同時に「自我」と呼ばれるもう一つの部分があり、それは個別で分離した特別な存在を保ちたいと強く望んでいます。そしてこの「自我」こそが、私たちの心のもう一つの部分が真実だと知っていることに抵抗するのです。

とても重要なワークブック・レッスンに「私は神の平安を望む(W.185)」というものがあります。このレッスンは、「この言葉をただ口にしたところで、何の意味もない。しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。」という一文で始まります。神を信じていようがいまいが、私たちは皆、神の平安をどれほど望んでいるかを認めるでしょう。しかし、神に「はい」と言い、神の平安を望み、何よりもその愛を経験したいと願うということは、自分の「抵抗」を見つめることでもあるのです。

つまり、自分の人生の土台となってきた思考体系を手放すことへの「恐れ」と向き合わなければならないのです。私たちが『奇跡講座』を学ぶうえで理解すべき重要な原則の一つがここにあります。そしてちなみに言えば、多くの学習者にとってこの気づきをもたらすのが、1年間にわたるワークブックの実践なのです。

私たちは、「正しい心(right-mindedness)」を持っており、それは赦しの原則を学び、実践したいと望んでいます。しかし同時に、「間違った心(wrong-mindedness)」の思考体系もあり、それは「帰郷したくない」「判断を手放したくない」「兄弟の利益を自分の利益と同じものとして見たくない」と言うのです。

『奇跡講座』の実践の中でも特に私たちを「家に帰らせてくれる」ものの一つがワークブックです。ところが、多くの学習者が経験することとして、どれだけ善意をもってワークブックを行っていても、朝家を出て仕事に向かうと、その日のレッスンを忘れてしまうのです。

時には、ワークブックの存在自体を忘れてしまう人さえいます。だからこそ、『奇跡講座』を実践する際に有効な考え方として、ワークブックをうまくやる方法とは、うまくできなかった自分を赦すことだと理解することが重要です。

そして、365日のトレーニングを進めていくなかで、レッスンを忘れてしまったとき、毎時間あるいは1時間に5~6回神を思い出すといったレッスンの指示を忘れてしまったときには、それを「神を忘れた最初の瞬間」の象徴、あるいは象徴的な出来事と見なすのです。

つまり、私たちはワークブックのレッスンを完璧にできない自分を赦し、日々の中で判断を持ち続けたり、恨みを手放せなかったりする自分を赦すことによって、「元々の間違い」を赦しているのです。それは単に神から分離できると信じただけでなく、そのことを深刻に受け止め、それを「罪」と呼び、罪悪感を抱き、それを他人のせいにして投影するという、私たちが密かに自分の責任だと信じている過ちを他者に押し付けようとすることなのです。

まとめると、『奇跡講座』を日々、年々進めていく中で、私たちの学びを早めてくれるのは、「イエスに対して『はい、学びたいです』と言うこと」以上に、イエスと共に自我を見つめ、「この思考体系はもう望まない」と言うことなのです。

この恐れを穏やかに赦すことが、私たちの進歩を早め、最終的にはこの講座を無事に終え、夢から目覚め、故郷に帰ることにつながるのです。

 

奇跡講座の学習者のよくある間違い レベルの混同 Part 4  ケネス・ワプニック Ph.D.

奇跡講座の学習者のよくある間違い レベルの混同 Part 4  ケネス・ワプニック Ph.D.

Seek Not to Change Part 4
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=Q0OHfQBca2s

レベルの混同というテーマについて、別の側面をお話ししてもよろしいでしょうか。
他の例を挙げて説明いたします。 私が重要だと考えるのは、「怒り」と「病気」という2つの概念です。

『奇跡講座』ではご存知の通り、「病気とは真理に対する防衛である」と教えられております。そして、病気は身体の問題ではなく心の問題であること、また痛みも同様に身体のものではなく、心に起因しているとされています。

実のところ、「病気」と「怒り」は同じ原理に基づいているため、ひとまとめにして考えることができます。『奇跡講座』ではさらに、「怒りは決して正当化されない」「私たちは自分が思っている理由では動揺していない」「私が他者に怒っているように見えても、実際には自分自身に怒っているのだ」と教えています。

しかしながら、この教えがしばしば誤って解釈され、「怒りは正当化されない」「病気は真理に対する防衛である」ということから、「私は怒っていない」「私は一時間に十回くしゃみをしているけれども、それでも病気ではない」と言うことがあります。「私は身体ではない」「だから病気ではないのだ」と。

けれども、こうした理解ではうまくいかないことが多く、多くの「否認」につながってしまいます。

『奇跡講座』が示すように、また優れた心理学者であれば、誰しもが語るように、「否認されたもの」は、投影という形で戻ってまいります。そして、その姿は私たちが容易に認識できるものとは限りません。 そもそも、私たちがこの世界に身体を持って生まれてきたという事実自体が、「私たちは罪を感じている」ということを物語っています。なぜなら『奇跡講座』では、身体とはエゴの具現であり、エゴの中核には罪悪感があるとされているからです。すなわち、私たちが身体を持ってこの世界に存在しているという事実自体が、「罪悪感がある」ことを意味しているのです。

また、『奇跡講座』は「心にあるものは必ず投影される」という原則を説いています。つまり、心に罪悪感が存在し、それが必ず投影されるのであれば、投影先は2つしかありません。他者の身体に投影すれば、それは「怒り」として現れ、自身の身体に投影すれば、「病気」として現れます。ほかに選択肢はないのです。

ですから、私たちが怒りを覚えたり、病気になったりすることは、避けようのないことだと言えるでしょう。 「レベル2」の理解としては、そうした怒りや病気を、「学びの機会」として捉えることです。つまり、罪悪感を外側の何かに投影したことを通して、それを見直し、手放すチャンスを得るということです。

もし私たちに「特別な関係」がなければ、聖霊が癒しの働きをなすための機会は存在しないかもしれません。ですので、最も顕著なレベルの混同は、「怒りは正当化されない」「病気は幻想である」というレベル1の原理を、私たちがこの現実世界に生きているという前提のまま、「だから私は病気ではない、怒ってもいない」と結論づけてしまうことだと考えます。

このことはまた、「聖霊に助けを求めること」にも関連します。実際、私どもが各地を訪れる中で、ここには非常に大きな問題があると感じています。幸いなことに、これはたしか『教師のためのマニュアル』のどこかに書かれていたと記憶していますが、「神の声を直接聞くことができる人は非常に少ない*」と明記されています。このことは、常に心に留めておくべきでしょう。
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*訳注:M.12.3
なぜ多数という幻想が必要なのだろうか。 その理由は、単に妄想に惑わされている者にとって実相は理解できるものではないからである。 神の声をわずかでも聴くことができるものは極めて少数であり、その彼らでさえ、神からのメッセージを自分に与えた例を通して直接それらのメッセージを伝達することはできない。 自らを霊であると悟っていない者達へのコミュニケーションを可能にするような媒体が必要になる。 即ち、彼らにも見ることのできる肉体である。 そして、真理が彼らの中に浮上させることになる恐れを介さずに、彼らが理解し、耳を傾けることのできる声である。 恐れずに歓迎される場所にのみ真理は入ってこられるということを忘れてはならない。 同様に彼らの一体性はじかに認識される事は不可能なので、神の教師には肉体が必要である。 
Why is the illusion of many necessary? Only because reality is not understandable to the deluded. Only very few can hear God's Voice at all, and even they cannot communicate His messages directly through the Spirit which gave them. They need a medium through which communication becomes possible to those who do not realize that they are spirit. A body they can see. A voice they understand and listen to, without the fear that truth would encounter in them. Do not forget that truth can come only where it is welcomed without fear. So do God's teachers need a body, for their unity could not be recognized directly.
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何千年もの間、条件づけられてきた心を持っている私たちが、突然『ワークブック』のレッスン「神の声は一日中私に語っている」を実践し、その場で声が聞こえてくるというのは、現実的とは言えません。そのようには機能しないのです。

おそらく『奇跡講座』や『ワークブック』が目指しているのは、「聖霊」という存在が心の中に常に存在していることを認識し、いつでもそこに助けを求めることができるということに気づくことではないかと考えます。

しかしながら、それには日々の練習と、心の働きをよく見つめる努力、そして真の識別力が必要です。『奇跡講座』が私たちに警告しているように、エゴは聖霊のふりをするのが非常に得意です。結果として、私たちは「神の声を聞いている」と思い込みながら、実際にはエゴの声に従って行動してしまうのです。

これは容易に見分けられるものではありません。 たとえば、コンサート・ピアニストがニューヨークのカーネギーホールで演奏するまでに、何年も1日8時間の練習を重ねるように、私たちもまた、精神的な鍛錬が必要なのです。

そして、たとえわずかでも何らかの結果に対する執着が心にあるならば、そのとき私たちはおそらく聖霊の声を聞いてはいないでしょう。むしろ、自分の願望を聖霊に語らせている可能性が高いのです。

この点については、本当に注意が必要です。私自身、非常に極端な例を耳にしたことがす。たとえば、「自分が性的暴力を受けたのは、赦しの学びとして聖霊がその出来事を与えたのだ」と語った方がいました。しかしながら、聖霊がこの世界におけるレッスンをセットすることはありません。なぜなら、この世界は実在しないからです。そのような理解は、私たちが最初に犯した誤りを繰り返し、強化することになってしまいます。

聖霊は駐車場を探してくれるわけではありませんし、郵便で小切手を送ってくれるわけでもありません。恋人を引き寄せてくれるわけでもなく、そういったことには一切関与しません。

こうした誤解は、『奇跡講座』とニューエイジ思想を混同してしまうことから生じるのです。聖霊は、「豊かさ」や「繁栄」といった世俗的な概念を使うこともありません。

私たちの心は非常に強力で、この世界やその中のすべてを創り出したほどですので、豊かさが欲しいと思えば、それを実現することは可能です。しかしながら、『奇跡講座』が語っているのはそうした「物質的豊かさ」ではなく、「王国の豊かさ」、すなわち「愛」です。

愛を与え、受け取ること。この愛は、自らがそれを持っており、なおかつ聖霊を通してその愛が流れてくるときに初めて与えることが可能となるのです。

この点は、全ての人が陥りがちな大きな落とし穴であるため、心から注意を喚起させてください。 私自身も経験がありますし、『奇跡講座』に取り組まれたすべての人が、少なくとも一度はこの罠にはまっていることでしょう。

自分の人生の台本について、ほんのわずかでも「こうあってほしい」といった思いがあれば、その時点で「これは聖霊の声だ」と思い込みやすくなり、他人にまで「その声が伝えたメッセージだ」と言い始めてしまいます。これでは完全にエゴの罠に落ち、罪悪感をさらに強化することになってしまいます。なぜなら、真理を否定しているからです。そして真理を否定することは、罪悪感をより一層強めるのです。

そのため、私が常に心の中で実践しているのは、「赦し方を教えてください」と聖霊にお願いすることです。これは、私自身にとっても、そしてこの世界にとって、最も必要なことであると、『奇跡講座』は語っています。それゆえ、私は日々の実践を通じて、この赦しに集中します。学びのレッスンは、毎秒、毎分、やってくるのです。

たとえば、朝に素晴らしい瞑想を行ったと思ったら、部屋を出た途端にすべてが崩れ始める…そのようなときこそ、聖霊に助けを求めるべき瞬間です。

そして、声が聞こえなくても大丈夫です。何か考えが浮かぶこともあれば、直感やひらめき、予感があることもありますし、まったく何も感じないこともあるでしょう。

「神の声は一日中私に語っている」といったレッスンを文字どおりに受け取り、それを「聖霊の声を聞くことは簡単だ」と結論づけてしまうと、そこから「実はエゴの声を聞いていた」、または「何も聞こえない自分は失敗者だ」といった誤った思い込みに発展してしまう可能性があります。

さらには、周囲の方々が「聖霊がこう語ってくださった」と語るのを耳にして、「なぜ自分だけ何も得られないのか」と自責の念に駆られてしまうこともあるでしょう。そのようにして、本来『奇跡講座』が取り除こうとしている罪悪感が、むしろ強化されてしまうのです。

自我の公式 Part 3   ケネス・ワプニック Ph.D.

自我の公式 Part 3   ケネス・ワプニック Ph.D.

The Ego's Formula, Part 3
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=Ju8hrFNe_Po

今朝は、「自我の公式」に関するシリーズを締めくくります。 それは自我の解体を暗示しています。 ここで、この混乱からどのように抜け出すかについて議論します。 自我の思考システムは、いったん私たちがそれに陥ると、完全無欠に見えますが、神には通用しません。 自我が私たちに嘘をついており、私たちすべての中に正しい心があり、私たちをこの泥沼から導く方法を知っている正しい心の教師がいるからです。 

非常に簡単に復習すると、自我の公式は愛への恐れから始まります。 なぜなら、私たちの恐れは、その愛の存在下で、私たちが同一視している個人的な自己、つまり「私」が消滅することだからです。 それを守るために、私たちは愛を押しやります。 私たちは特別な愛の世界を作り、自我はこれが罪を構成すると告げ、私たちは、神の愛が私たちにとって十分でなかったと神に告げたという恐ろしい罪悪感を感じます。 

それから、私たちは神の報復を恐れるようになり、神からの避けられない罰、つまり私たちの死から逃れる唯一の方法は、このすべてを外に投影し、問題は内側ではなく外側にあると見ることです。 ですから、はい、私はまだ恐れていますが、私が恐れている理由は、そこにいる誰もが罪人であり、誰もが私や私が同一視する人々を傷つけたことに対して罪悪感を感じるに値するからです。 

そして、これが起こると、私たちは自分がそれを投影したことを都合よく忘れてしまいます。 これは自我の計画の重要な部分です。 ワークブックのレッスン136「病気は真理に対抗する防衛である。」は、特にその最初の部分、つまりレッスンの最初のページで、このすべてを非常に明確にしています。 「私は自分が何をしたかを忘れてしまった。 私はこれを投影したことを忘れてしまった。*」
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*訳注:W.136.4
あなた自身以外の誰が脅威の程度を推し量り、脱出策が必要だと決断し、実在すると判断された脅威を緩和するために、一連の防衛策を講じたりするだろうか。 こうしたことはすべて、無意識に行えるようなことではない。 しかし、それを行った後で、あなたの計画は、あなたが自分でその脅威を作り出したことを忘れるようにと要求する。 忘れることで、それがまるであなた自身の意図の外側にあるように見える。 すなわち、その脅威は、あなたの心の状態と関わりのないところで起こっている出来事のように感じられ、自分自身が生じさせた結果ではなく、外側から自分に真に影響を及ぼすもののように思える。 Who but yourself evaluates a threat, decides escape is necessary, and sets up a series of defenses to reduce the threat that has been judged as real? All this cannot be done unconsciously. But afterwards, your plan requires that you must forget you made it, so it seems to be external to your own intent; a happening beyond your state of mind, an outcome with a real effect on you, instead of one effected by yourself.
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私が知っていることは、世界が私にしたことであり、私はこの嘘と物語のシステム全体、そして物語と嘘を支持し、私は絶えず作り上げ、世界が私にしたことを疑う余地なく証明し、ますます多くの証人を得ます。 そして、私たちがそれに巻き込まれ、世界中のすべての人に同意させてしまうと、希望はなくなります。なぜなら、事実はそこにあり、私たち全員がその事実を知っているからです。
だからこそ、私たちは感覚器官と、すべての感覚データを解釈して、世界が私たちにしたことを示す脳を持つ体を持っています。 このすべてを、世界とは何かという観点から要約すると、それは「世界は2と2は4だと信じている」ということです。 

学校に通っている人に2と2はいくつかと尋ねると、彼らは4と答えます。 なぜなら、他の数字を言えば、テストで間違ったとマークされるからです。 しかし、事実は、2と2が4なのは、自我の世界、時間と空間の世界、身体の世界だけです。 心の世界では、「2たす2は5」です。ここでは論理的に意味をなさなくても、イエスが『奇跡講座』で伝えたいのは、「この世界のすべては意味をなしていない」ということです。むしろ、この世界のすべては「嘘」なのです。

彼は私たちに「形態の認識ほど盲目なものはない*」と告げます。 形態は、ここに世界があると告げます。 ここに体がいて、世界がそれに押し付けていると感じ、そこに人々がいて、私に同意する世界の誰もがいます。 そして、それは確かに身体にとっては真実ですが、それはすべての自我の嘘の中で最も基本的なものです。 なぜなら、2 + 2 = 4の世界である身体は、ここに分離された世界があると言っているからです。 
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*訳注:T-22.Ⅲ.6
 見ないようにと作り出されたこれらの眼は、決して見ることはない。なぜなら、それらが表象している想念はその想念を作り出した者を離れたことはなく、それらを通して見る主体は、それらを作り出した者だからである。その想念を作り出した者には、見ないこと以外にどんなゴールがあっただろう。肉体の眼は、そのゴールのためならば完壁な手段だが、見るための手段ではない。肉体の眼が外的なものの上にとどまり、それらを超えていくことができずにいる様を、見てみなさい。肉眼が無の前で止まってしまい、形態を超えて意味にまで進むことができずにいる様を、よく見なさい。形態の知覚ほど、目を眩ませるものはない。なぜなら、形態を見ているということは、理解が曖昧にされていることを意味するからである。
6 These eyes, made not to see, will never see. For the idea they represent left not its maker, and it is their maker that sees through them. What was its maker's goal but not to see? For this the body's eyes are perfect means, but not for seeing. See how the body's eyes rest on externals and cannot go beyond. Watch how they stop at nothingness, unable to go beyond the form to meaning. Nothing so blinding as perception of form. For sight of form means understanding has been obscured.
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この身体によって区切られた、私と呼ばれる分離した存在があり、それは神からの分離が事実であることを意味するだけです。 そして、それが事実なら、罪は現実であり、罪悪感は正当化され、神への恐れは逃げるべきものです—もし2と2が4ならば。 しかし、もし2と2が5なら、私たちはイエス聖霊がいる私たちの心に戻り、これはすべて作り話であり、それが抜け出す方法だと悟ります。 

だからこそ、自我の思考システムは完全無欠ですが、神には通用しません。 抜け出す方法は、世界が何か起こる理由について与えるすべての説明を調べ、歴史の中で最も学識のある脳が、何が起こるかを私たちに告げ、それらすべてを見て、「これはあなたの世界では真実かもしれないが、私の世界では真実ではない」と言うことです。 

私にとっての世界は、イエスがいる場所、聖霊がいる場所、贖罪がある場所、赦しが実践されている場所です。 私にとっての世界は、いつでも自我の分離の嘘を信じるか、贖罪の聖霊の真実(分離は決して起こらなかったと言う)を信じるかを選択できる意思決定心の世界です。 現実的なレベルでは、私が自分の身体と同一視している限り、私は身体としての自分の経験を否定することはできません。 イエスがテキストの初めの方で、これは特に不当な否定の形態である*と教えています。
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*訳注: T-2.IV.3:8~13
肉体は単にこの物理的世界におけるあなたの経験の一部であるに過ぎない。  その能力については過大評価されうるし 、実際にしばしばそうされている。 しかし、この世界においてはその存在を否定することはほとんど不可能である。 そうする者たちは、否定の中でもとりわけ無価値な形の否定に携わっていることになる。  無価値なという言葉は、ここでは単に、心を持たないものを否定することによって心を保護する必要はないと示唆しているだけである。もし心の持つ力のこの残念な側面を否定するなら、心の力そのものをも否定していることになる。
The body is merely part of your experience in the physical world. Its abilities can be and frequently are over-evaluated. However, it is almost impossible to deny its existence in this world. Those who do so are engaging in a particularly unworthy form of denial. The term "unworthy" here implies only that it is not necessary to protect the mind by denying the unmindful. If one denies this unfortunate aspect of the mind's power, one is also denying the power itself.
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私は、自分の身体的または感情的な問題として経験することを否定しません。 私は、コースが魔術と呼ぶもの、つまり自分の身体的または感情的な問題を軽減するのに役立つものの有効性を否定しませんが、それを信じる必要はありません。 そして、これは『奇跡のコース』に取り組み、イエスとの旅をし、はしごを登るときに直面する課題です。 

私たちが、世界が私たちが思っているものではないこと、ここは欺瞞の世界であり、嘘の世界であることを学びながら、私たちがどこにいるかを否定するように求められているわけでもありません。 しかし、私たちは、自分の身体的自己、心理的自己から自分自身を切り離し始め、「これが本当の私ではない」と言い始めることができます。 ですから、問題を解決するために薬を服用している間—伝統的な薬、代替医療、または薬を服用しないか、または苦痛や懸念を軽減するために何かをしているかに関わらず—これは自我の罠の一部であることを理解してください。 

ですから、あなたは依然として愛を恐れるあまり、肉体でいることを選んだという事実に敬意と敬意を払いつつも、コースが初期段階で提唱する魔術と奇跡の「妥協的アプローチ」を活用したいのです。自分の体をケアしながらも、行動を起こすべき場所はそこではないことに気づきます。

行動は実際に心の中にあり、そこが奇跡が私たちを連れて行く場所です。 したがって、自我の公式を打ち消す方法は、あなたが与えた、または世界があなたに与えた、あなたがなぜここにいるのか、なぜあなたがそのような状態なのか、なぜ苦痛や苦しみがあるのか、なぜ幸福と喜びがあるのかについてのすべての嘘、すべての物語、すべての説明を問い、挑戦し始めることです。 

そして、それらすべてを見て、「もうこれ以上は信じなくてもいい」と言いましょう。エゴは私に嘘をつき、聖霊、あるいはイエスだけが真実を語ってくれるのです。そして、その真実の中で、私たちは奇跡の道を歩むことを学びます。それは、2足す2は4という嘘の世界から、2足す2は5、つまり私たちは意思決定する心であり、天と地を選ぶすべての力は私たちにある真実の世界へと私たちを導きます。

それは、自我の嘘または聖霊の真実を信じることを選択できる、私たちの心のその意思決定の部分にかかっています。 そして、コースの中で何度も何度も、イエスは「もう一度選びなさい」と言っています。 そして、それはもちろん最後のメッセージであり、「もう一度選びなさい」です。 そして、その選択の中で、あなたは神の平安を見つけるでしょう。