実相世界 ステファニー・パナイ Part 2/5(奇跡講座)
The Real World in A Course in Miracles
Stephanie Panayi
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=fnz4lJoPTd0
3. 奇跡とは何か
『奇跡講座』の有名な言葉、
「奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると心に思い出させるだけである。」
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W.PartⅡ.13.1
奇跡とは訂正である。それは創造することはせず、実際、何の変化ももたらさない。 奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると心に思い出させるだけである。 それは誤りを取り消すが、知覚を越えたところまで進もうとはせず、赦し機能を超えようともしない。 それ故に、奇跡は時間の枠内にとどまる。 それでもそれは超時性が戻って、愛が目覚めるための道を開く。 奇跡がもたらす優しい癒しの下では、恐れは必ず消えていくからである。
1 A miracle is a correction. It does not create, nor really change at all. It merely looks on devastation, and reminds the mind that what it sees is false. It undoes error, but does not attempt to go beyond perception, nor exceed the function of forgiveness. Thus it stays within time's limits. Yet it paves the way for the return of timelessness and love's awakening, for fear must slip away under the gentle remedy it brings.
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ワークブック「奇跡とは何か」ではこうも述べられています:
> 「奇跡は、初めはただ信じることから始まる。 なぜなら、奇跡を求めるということは、心が自ら見ることも理解することもできないものを思い描く用意ができたということを示唆するからである。」
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*訳注:W.PartⅡ.13.4
奇跡は、初めはただ信じることから始まる。 なぜなら、奇跡を求めるということは、心が自ら見ることも理解することもできないものを思い描く用意ができたということを示唆するからである。 それでも信じることによって、奇跡の土台となるものが本当にそこにあると証するものがもたらされるだろう。 そして奇跡は、あなたがそれを信じたことが正しかったと納得させてくれる。 そして、その土台にあるのは、あなたが以前に見ていた世界よりもずっと実在性のある世界だと示してくれるだろう。 それは、あなたがそこにあると思っていたものから贖われている世界である。
The miracle is taken first on faith, because to ask for it implies the mind has been made ready to conceive of what it cannot see and does not understand. Yet faith will bring its witnesses to show that what it rested on is really there. And thus the miracle will justify your faith in it, and show it rested on a world more real than what you saw before; a world redeemed from what you thought was there.
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私たちが世界にあると思っていたのは、罪、荒廃、破壊です。奇跡はそれらすべてを見て、「私の目が見ているものにもかかわらず、動揺する必要も、警戒する必要も、恐れる必要もない」と告げます。
ですから、奇跡が外の世界を美しく平和な場所に変えたからといって、私たちが平和を感じるわけではありません。奇跡は形を変えることとは何の関係もありません。そこに焦点を当てているのではないのです。
奇跡は荒廃を見ます。私たちの人生の荒廃を見ます。もし外の世界で形がひどく間違っているなら、奇跡は世界の競争に目を向け、その先を見ます。そして、これが実相世界にいるということなのです。
私たちは世界の血と臓物の先を見ます。
ある意味で、私たちは恐れるものは何もなく、『実在するものは脅かされない。実在しないものは存在しない。ここに神の平和がある。』ということです。
これはコースでの言葉ですが、私たちが実相世界に生きている時に経験するものです。実相世界とは、内なる経験です。
「奇跡とは何か」からもう少し引用します。
W.PartⅡ.13.5
奇跡は、飢えと渇きに苦しむ生き物たちが死ぬ為にやってくる乾いた埃まみれの世界に天から降り注ぐ癒しの雨の滴である。 今や、彼らは水を得た。今や世界は緑に包まれ、あらゆるところに生命のしるしが芽吹き、命あるものは不滅なので、生まれたものが死ぬことはないと教える。
Miracles fall like drops of healing rain from Heaven on a dry and dusty world, where starved and thirsty creatures come to die. Now they have water. Now the world is green. And everywhere the signs of life spring up, to show that what is born can never die, for what has life has immortality.
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もちろん、これはすべて比喩です。これはこう言っているのです──死と破壊が見える場所に、命と不滅を見出すべきだと。そしてそれは「心の中で体験されること」なのです。
奇跡はそうしたすべてを前にしても、こう言います:「これは助けを求める叫びである」。
今、世界では多くの悲惨なことが起きています。多くの変化、多くのドラマ、つまり、これはすべての国にとって壊滅的な出来事であり、事態はさらに悪化するだろうという声が上がっています。
奇跡はそれらすべてに目を向けます。奇跡は助けを求める声を見ます。奇跡は幻想の階層などないこと、そして奇跡にも階層がないことを理解します。
たとえ物事が実際よりもずっと悪く見えたとしても、逆に牧歌的な過去があったとしても、それはすべて同じなのです。すべては、より激しかったり、より大規模だったりしながら、同じ自我の力学(ダイナミズム)が繰り広げられているだけなのです。
これに対し、奇跡はすべてに同じように反応します。幻想の階層などありません。幻想は幻想です。葛藤は葛藤です。大小は関係ありません。奇跡はすべてに同じように反応します。
「肉体を超えたものに心を向ければ平安になれる。*」
それを実現するには、聖霊に助けを求め、分離や利害の対立の幻想を超えた視点を得る必要があります。
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訳注:T-19.Ⅰ.13
恩寵は肉体に与えられるのではなく、心に与えられる。そしてそれを受け取る心は、直ちに肉体を超えたところに目を向け、自らが癒された聖なる場所を見る。そこには、恩寵が授けられた場所である祭壇があり、それは恩寵の中に立っている。それならば、あなたも兄弟に恩寵と祝福を差し出しなさい。なぜなら、あなたがた両方のために恩寵が置かれたその同じ祭壇の前に、あなたは立っているからである。そして、信を通してあなたが癒せるように、兄弟と一緒に、恩寵によって癒されなさい。
Grace is not given to a body, but to a mind. And the mind that receives it looks instantly beyond the body, and sees the holy place where it was healed. There is the altar where the grace was given, in which it stands. Do you, then, offer grace and blessing to your brother, for you stand at the same altar where grace was laid for both of you. And be you healed by grace together, that you may heal through faith.
W-151.11~12
聖霊は、それらの出来事の中で真理を表している要素だけを選択し、無意味な夢を反映する部分は気にかけない。 そして聖霊はあなたが見ているすべてのものを解釈し直す。 完全に統一された確実な一つの判断基準に基づいて、あらゆる出来事、あらゆる状況、あなたに影響を与えるように見えるどんな出来事も解釈し直してくれる。そしてあなたは憎しみを越えた所に愛を、変化の中に普遍性を、罪の中に清きものを、世界の上に天国の祝福のみを見るようになる。 これが、あなたの復活である。 あなたの命はあなたの目に見えない、いかなるものの一部でもないからである。 それは肉体と、この世界を越えたところにある。 神聖でないものを証言するあらゆる証人を超え、聖なる存在の中にあり、聖なる存在自身と同じく神聖である。聖霊の声は、すべての人とすべての者の中で、あなたの自己と創造主のことだけをあなたに語るだろう。 そして、あなたの自己と創造主は一つのものである。そのようにして、あなたはすべてのものの中にキリストの顔を見るだろう。 そして、すべてのものの物事の中に、神の声のこだまだけを聞くだろう。
11 He will select the elements in them which represent the truth, and disregard those aspects which reflect but idle dreams. And He will reinterpret all you see, and all occurrences, each circumstance, and every happening that seems to touch on you in any way from His one frame of reference, wholly unified and sure. And you will see the love beyond the hate, the constancy in change, the pure in sin, and only Heaven's blessing on the world.
12 Such is your resurrection, for your life is not a part of anything you see. It stands beyond the body and the world, past every witness for unholiness, within the Holy, holy as Itself. In everyone and everything His Voice would speak to you of nothing but your Self and your Creator, Who is one with Him. So will you see the holy face of Christ in everything, and hear in everything no sound except the echo of God's Voice.
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世界の状況がどんなに酷くても、『奇跡講座』の基本は変わりません。赦しの根拠に関する箇所には、次のように書かれています:
「あなたに求められているのは、誤りに基づいている苦悩への、すなわち助けを求めている苦悩への自然な反応として、赦しを見ることだけである。赦しだけが唯一の正気の応答である。それはあなたの権利が犠牲にされないように守っている。 このように理解することが、実相世界を生起させて恐怖の夢と入れ替わらせることになる唯一の変化である。*」
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訳注:T-30.Ⅵ.2
赦しは常に正当である。それには確かな根拠がある。あなたは赦すべきでないものを赦すのではなく、罰を必要とする真の攻撃を大目に見るのでもない。救済は、実在するものに対して不適切であるような、不自然な応答をするよう求められることの中にはない。そうではなく、もとより起こってはいないことを知覚しないことにより、実在しないものに対して適切に応答するようにと、あなたに求めるだけである。もし赦しが正当でないとしたら、攻撃に赦しで応じるとき、あなたは自分の権利を犠牲にするよう求められていることになる。しかし、あなたに求められているのは、誤りに基づいている苦悩への、すなわち助けを求めている苦悩への自然な反応として、赦しを見ることだけである。赦しだけが唯一の正気の応答である。それはあなたの権利が犠牲にされないように守っている。
このように理解することが、実相世界を生起させて恐怖の夢と入れ替わらせることになる唯一の変化である。攻撃が正当とされない限り、恐れが生じることはあり得ず、またもし恐れに実在する根拠があるとしたら、赦しには何の根拠もないことになる。赦しの土台は非常に実在性があり、充分に正当と認められるものだとあなたが知覚したとき、実相世界が達成される。あなたがそれを不当な贈り物と見なしている間は、それは、あなたが「赦そう」としている罪悪を支持するものとならざるを得ない。正当でない赦しは攻撃である。そして、これがこの世界が与えることのできるすべてである。世界は時には「罪人たち」を赦すが、彼らが罪を犯したことはいつまでも覚えている。したがって、彼らは世界が与える赦しに値しないことになる。
Pardon is always justified. It has a sure foundation. You do not forgive the unforgivable, nor overlook a real attack that calls for punishment. Salvation does not lie in being asked to make unnatural responses which are inappropriate to what is real. Instead, it merely asks that you respond appropriately to what is not real by not perceiving what has not occurred. If pardon were unjustified, you would be asked to sacrifice your rights when you return forgiveness for attack. But you are merely asked to see forgiveness as the natural reaction to distress that rests on error, and thus calls for help. Forgiveness is the only sane response. It keeps your rights from being sacrificed. This understanding is the only change that lets the real world rise to take the place of dreams of terror. Fear cannot arise unless attack is justified, and if it had a real foundation pardon would have none. The real world is achieved when you perceive the basis of forgiveness is quite real and fully justified. While you regard it as a gift unwarranted, it must uphold the guilt you would "forgive." Unjustified forgiveness is attack. And this is all the world can ever give. It pardons "sinners" sometimes, but remains aware that they have sinned. And so they do not merit the forgiveness that it gives.
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ですから、世の中で攻撃、利己主義、誰かを対立させること、ある人の利益を別の人の利益と対立させること、そういったものを見る時、もしその攻撃が、その人の行いを理由に攻撃することが正当化されるものだと認識するなら、あなたは実相世界に向かうことも、赦すこともできないでしょう。
聖霊に助けを求め、相手の行動の背後にある助けを求めることで、徐々に実相世界の経験を積んでいくという考えです。このコースでは実相世界への架け橋について学びますが、赦しこそが実相世界への架け橋です。それは、攻撃したい、奪い取りたいといった、特別な憎しみや特別な愛の関係から、そういう状況から、赦しという橋を渡って実相世界へと繋がっていくのです。共通の関心を感知し、他者の行動の背後にある助けを求める声を感知することが、その橋を構成する要素です。
このことをより深く理解するために、『奇跡講座』第12章「聖霊による判断」からの一節を読みたいと思います:
T-12.Ⅰ.4
助けを求める呼びかけのすべてをありのままに認識する妨げとなるのは、あなた自身が思い描いている攻撃の必要性だけである。これのみが、実相との果てしない「戦い」に参戦しようとする意欲をあなたにもたらす。その「戦い」の中であなたは、癒しの必要性を非実在のものとすることにより、その実在性を否定する。あなたに実相をありのままに受け入れる意欲がなく、それゆえに実相を自分自身に与えずにいるのでなければ、あなたがこのようなことをするはずはない。
There is nothing to prevent you from recognizing all calls for help as exactly what they are except your own imagined need to attack. It is only this that makes you willing to engage in endless "battles" with reality, in which you deny the reality of the need for healing by making it unreal. You would not do this except for your unwillingness to accept reality as it is, and which you therefore withhold from yourself.
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実相世界とは、何らかの表現であれ、私たちが他者と自分自身の完全性と罪のなさを認識するとき、それが実相世界なのです。助けを求める声を認識できないことは、助けを拒否することです。あなたは、自分は助けを必要としていないと主張するのでしょうか?
それは兄弟の呼びかけに応じることによってのみ、あなたは助けを受けることができるのに、兄弟の助けを拒否する時、まさにそのように主張しているのです。
兄弟の助けを拒否すれば、神の答えも認識できません。聖霊は動機を解釈する際にあなたの助けを必要としませんが、あなたは聖霊の助けを必要とします。 たとえあなたが「ああ、そうだ、これは助けを求める声だ」と頭で考えていても、常に聖霊に助けを求めてください。頭で理解するだけではうまくいきません。その人を真に理解するための真の助けが必要であり、形を超えて見ることができるように聖霊に助けを求める必要があります。
自分のやり方で兄弟を助けようとしてはいけません。自分自身を助けることはできないからです。ですから、形だけの助けがどのようなものになるか考えず、神の助けを求める声に耳を傾けてください。そうすれば、あなた自身が父を必要としていることに気づくでしょう。キリストの名においてあなたが呼びかけに応じるたびに、父の記憶があなたの意識に近づきます。あなたの必要性のために、助けを求める声をありのままに聞き、神があなたに答えてくださるようにしてください。
今、世界で起こっている様々な出来事を考えると、ニュースを見たり、ソーシャルメディアで助けを求めたりする機会がたくさんあります。他人の行動の背後にある助けを求める声を察知し、それに例外を設けないようにしましょう。
もし自分が例外を作ってしまったら、それは罪悪感を抱き続けたいという自分の願望を反映しているのです。 なぜなら、他人の特定の行動の背後にある助けを求める声を見たくないことは、その人に表れている自分の行動の背後にある助けを求める声をも認識したり、それに応えたりしたくないことだからです。
ですから、今起こっているすべての出来事に対して、私たちの内なるエゴは「なんてことだ、大惨事だ、壊滅的だ、事態は悪化している」と感じます。エゴは私たちに物事を悲惨な形で捉え、恐れさせようとします。それは、世界は現実であり、世界は私を傷つけ、害を及ぼす可能性があると言っているのです。
しかし、繰り返しますが、幻想に階層はなく、奇跡に難易度の序列などないことを覚えておいてください。すべては同じです。幻想は幻想です。それぞれがあなたに贈り物を与えてくれます。その贈り物とは、助けを求める声に応えることです。そうすることで、あなたは内なる平和とより深く一体化していくでしょう。実相世界の一貫性を体験することにますます近づき、それによって、他のすべての人々、全世界に、彼らも心の中に共感できる平和を思い出させることになるでしょう。
そして、それこそが真の癒しとなるのです。
Part 3/5へ続く