Northern bear spirit

気づいたこと、奇跡講座、ワーク、哲学、スピリチュアル

Let It Be 母性原理  Part 1/4  ステファニーパナイ  (奇跡講座)

Let It Be 母性原理  Part 1/4  ステファニーパナイ  (奇跡講座)

Let it be. 
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=pJqKjnm4h90

1. 「Let It Be(レット・イット・ビー)」

今日は私が書いたエッセイ「Let It Be(レット・イット・ビー)」を読みたいと思います。このエッセイは「母性原理」に基づいており、『奇跡のコース』における贖罪(アトーンメント)の原理を、神の母性的側面として捉えることについて書かれています。神を「愛する母」として考えるとはどういうことかをテーマにしています。

このエッセイは、私の著書『帰還の橋:西洋ヨーガとしての奇跡のコース(The bridge of return a course in miracles as a western yoga)』からの抜粋です。なぜ「西洋ヨーガとしての奇跡のコース」と呼んでいるのか、疑問に思われる方もいるかもしれません。その答えを説明するために、本の裏表紙に書かれている紹介文を読みます。

 

・ 精神的伝統とヨーガ
古来より、精神的伝統は人を「唯一のいのち」へと結びつける実践を発展させてきました。インドのヨーガもその一つです。同様に、『奇跡のコース』も、赦しを通じて私たちの霊的自己と故郷へと橋をかける「ヨーガ」の一形態と見なすことができます。つまり、『奇跡のコース』は「帰還の橋」なのです。実際に『コース』の中に「帰還の橋」について言及している箇所があります。

ヨーガという言葉を使った理由は、カール・ユングの発言にも由来します。彼はこう言いました:

「数世紀の間に、西洋は独自のヨーガを生み出すだろう。それはキリスト教によって築かれた基盤の上に成り立つ。」

 

・西洋的ヨーガとしての「奇跡のコース」
つまり、『奇跡のコース』を「西洋的ヨーガ」として考えるというのは、キリスト教の伝統とその象徴を用いながら、それを赦しのプロセスという癒しの過程として再解釈していくことなのです。『コース』では「贖い」「贖罪」「十字架」などの言葉が使われますが、それらには従来とは異なる意味が与えられています。
ユングの分析心理学も同様です。彼はキリスト教神話を一種の「神話学」として見ており、キリストの生涯に現れる象徴や出来事を、私たち自身の心理的成長や癒しの段階として読み解きます。 そういった背景から、このエッセイ集に『帰還の橋』という題名をつけるのはとてもふさわしいと思いました。

 

・「Let It Be」の由来と母の象徴
それでは、『Let it be』から読んでみましょう。さて、このエッセイは「破局化(Catastrophizing)」という言葉の定義から始まります。

__________________________________________
訳注:破局化(Catastrophizing)
限られた情報に基づいて最悪の結論へと飛躍し、過剰な警戒心や未来への不安を引き起こす思考傾向。

__________________________________________
私はずっと、ビートルズの名曲「Let It Be(レット・イット・ビー)」は、ポール・マッカートニーが見た聖母マリアの幻に基づいたものだと思っていました。
「困難なときに、マザー・メアリーが私のもとに来る」と彼は歌っています。
でも、それは私の勘違いだったのかもしれません――あるいは、間違ってはいなかったのかもしれません。 2018年のテレビ番組「カープール・カラオケ」で、マッカートニーは14歳のときに亡くなった母メアリーが、1960年代に夢の中に現れて、こう言ったと語っています。
「すべてうまくいくさ。ただ、Let It Be」
ただし、聖母マリアとの関連について尋ねられると、彼はそれを聴き手の解釈に委ねています。

 

・ 聖母の象徴とヘレン・シャックマンの幻視
私にとって、聖母マリアの象徴は特別な意味を持っています。それは、ヘレン・シャックマンが見たピエタの幻視を思い起こさせるからです。以下は、ケネス・ワプニックの著書『Absence from Felicity『天国から離れて』にある描写です。

「マリアが死んだイエスの身体を抱いているミケランジェロピエタ像を幻視し、その像が彼女の目の前に現れ、マリアがこう言った――『これは何の意味もない』」

この幻視において、マリアは息子の身体の死が、自分とのつながりに何ら影響を与えないことを知っていたのです。

『奇跡のコース』が言うように
「心はつながっているが、肉体はそうではない。」__________________________________________
*訳注:T.18.Ⅵ.3
心はつながっているが、肉体はそうではない。肉体の特性を心にあてがうことによってのみ、分離が可能であるかに見える。そうして心のほうが、断片化されて私的で孤独なもののように見えている。心を分離させ続けているのは心の中の罪悪感であり、その罪悪感が肉体に投影されている。そして肉体は、苦しみ死んでいくことになる。なぜなら、心の中に分離を保ち、心に自らのアイデンテイテイーを知らせずにおくために、肉体が攻撃されるからである。心は攻撃できないが、空想を作り出して、肉体がそれらを演じるように仕向けることはできる。だが、満足をもたらすように見えているのは、決して肉体の行うこと自体ではない。心は、自らの空想を肉体が実際に演じていると信じていない限り、心の罪.悪感をますます肉体に投影することにより、肉体を攻撃する。
Minds are joined; bodies are not. Only by assigning to the mind the properties of the body does separation seem to be possible. And it is mind that seems to be fragmented and private and alone. Its guilt, which keeps it separate, is projected to the body, which suffers and dies because it is attacked to hold the separation in the mind, and let it not know its Identity. Mind cannot attack, but it can make fantasies and direct the body to act them out. Yet it is never what the body does that seems to satisfy. Unless the mind believes the body is actually acting out its fantasies, it will attack the body by increasing the projection of its guilt upon it.

__________________________________________
マリアがイエスの傷ついた身体を見て、それでも彼の「無傷の統一性」を認識できたことは、まさに「奇跡の機能」を体現しています。

「奇跡とは訂正である。 それは創造することはせず、実際何の変化ももたらさない。 奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると心に思い出させるだけである。」

__________________________________________
訳注 W-pII.13.1:3
奇跡とは訂正である。 それは創造することはせず、実際何の変化ももたらさない。 奇跡はただ惨状を見つめ、そこに見えるものが虚偽であると心に思い出させるだけである。 それは誤りを取り消すが、知覚を超えるところまで進もうとはせず、 赦しの機能を超えようとしない。 それ故に奇跡は時間の枠内にとどまる。 それでもそれは超時性が戻って愛が目覚めるための道を開く。 奇跡がもたらす優しい癒しのもとでは、恐れは必ず消えていくからである。
 A miracle is a correction. It does not create, nor really change at all. It merely looks on devastation, and reminds the mind that what it sees is false. It undoes error, but does not attempt to go beyond perception, nor exceed the function of forgiveness. Thus it stays within time's limits. Yet it paves the way for the return of timelessness and love's awakening, for fear must slip away under the gentle remedy it brings.

__________________________________________


2.  病の根源は「分離の信念」

私たちのあらゆる病や不安の根源は、「神から分離した」という誤った信念にあります。そしてその信念は、死や破壊という世界の現象に投影され、それが現実であると解釈してしまいます。

それだけではありません。ストレスは必ずしも重大な出来事である必要はありません。例えば「料理の失敗」「遅刻」「ゴミ出しを忘れた」といったささいなことでも、エゴの「分離思考」に基づいていると、それが世界の終わりのように感じられてしまうのです。

癒しとは、『コース』の「贖罪の原理」に立ち返ることです。それは、「私たちは決して神から分離していない」「私たちはひとりではない」「私たちは安全である」という真理と再びつながることを意味します。

~Part2/4へと続く