それで何が得られるのか? ケネス・ワプニック Ph.D.
What Gives?
Youtube
https://www.youtube.com/watch?v=GG7IbUPIy6I
訳者ノート:
病気と医療についての奇跡講座の教えを常識的に理解するのは非常に難しく、この文の最後に出てくるように「ヘレンに言わせれば、それがこのコースがごく少数の人のためのものである理由」になっている。 しかしここで理解しやすいように妥協してしまうと、奇跡講座の最大の特徴である首尾一貫性が瓦解してしまうことになる。 一方、聖書の中でイエスが行ったことを率直に見つめれば、自ずから奇跡講座の主張が正しいことが分かる。
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以下本文:
質問者: あなたは何度も、体は何もしない、目は何も見ない、耳は何も聞こえない、脳は何もしないと仰っていますね。そして、コースを通して世界の見方や、私たちの認識がよりポジティブになるというハーレー(質問者の一人)への答えなど、世界を異なって認識することについて話を進めています。
態度が変わります。私は精神衛生の分野にいますが、処方薬や違法薬物は、時に肯定的に認識を変えたり、ティモシー・リアリー(Timothy Leary*)の実験を通して、内面的に一体感や至福の経験を認識したり、経験さえも変えたりします。しかし、これらは脳内の様々な化学物質を介して行われ、「奇跡講座」の実践を通してではありません。
この言説についてどう思われますか?
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*訳注: Wikipediaより
ティモシー・フランシス・リアリー(1920年10月22日 - 1996年5月31日)は、サイケデリックドラッグの強力な支持者として知られるアメリカの心理学者兼作家。
ハーバード大学の臨床心理学者だったリアリーは、1960年にメキシコでマジックマッシュルームを摂取して衝撃的な体験をした後、ハーバード・サイロシビン・プロジェクトを設立した。2年間にわたり、コンコード監獄実験とマーシュ・チャペル実験でサイロシビンの治療効果をテストした。また、当時米国では合法だったリゼルグ酸ジエチルアミド(LSD)の実験も行った。リアリー自身も被験者とともに幻覚剤を摂取し、学生にも摂取するよう圧力をかけたとされ、ハーバード大学の他の教授らはリアリーの研究の科学的正当性と倫理性に疑問を呈した。 ハーバード大学はリアリーと同僚のリチャード・アルパート(後にラム・ダスとして知られる)を1963年5月に解雇した。ハーバード大学のスキャンダル後、多くの人が幻覚剤の存在を知った。リアリーはサイケデリックドラッグを公に宣伝し続け、1960年代のカウンターカルチャーの有名人となった。彼は「オン、チューンイン、ドロップアウト」、「セットとセッティング」、「自分で考え、権威に疑問を抱く」など、彼の哲学を宣伝するキャッチフレーズを普及させた。
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Kenneth: わかりました。こちらからの質問もあります。質問は「これらに何が得られるのか?」です。 (この言説で何が得られるのか?)
まず、化学物質が感情体験を変えることは確かに真実であるということを言っておきます。それを否定するのは狂気の沙汰だと思います。それは確かに効果があります。しかし、それが変えるのは、障害や鬱、不安につながった根本的な思考ではありません。
コースがその問題に実際に触れている箇所を読んでみましょう。「病気というものを心が肉体を用いて達成しようとする目的に即してくだす決断として受け入れることがイエス癒しの基盤である。 そしてこれはあらゆる形の癒しについて言うことができる。 患者がその通りだと決断すれば、彼は回復する。 回復に逆らう決断をすれば癒されることはない。 医者とは誰だろうか。それは患者自身の心に他ならない。 結果は彼が決める通りのものである。*」
そして、ここに重要な一文があります。「特別な薬剤が彼を助けるように見えるが、 それらは彼自身の選択に形を与えるだけである。 彼は自分の要求に明確な形を付与するためにそれらの薬剤を選択する。薬剤がすることはそれだけであり、他には何もしない。それらは実際にはまったく必要のないものである。 患者はそうしたものの助けを借りずに、ただ起き上がり、 私にとってはこれは何の役にも立たないということができる。 直ちに治らないような病気の形態は一つもない。 」
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*訳注: M.5.Ⅱ.2:1-10
病気というものを心が肉体を用いて達成しようとする目的に即してくだす決断として受け入れることがイエスの癒しの基盤である。 そしてこれはあらゆる形の癒しについて言うことができる。 患者がその通りだと決断すれば、彼は回復する。 回復に逆らう決断をすれば癒されることはない。 医者とは誰だろうか。そは患者自身の心に他ならない。 結果は彼が決める通りのものである。 特別な薬剤が彼を助けるように見えるが、 それらは彼自身の選択に形を与えるだけである。 彼は自分の要求に明確な形を付与するためにそれらの薬剤を選択する。薬剤がすることはそれだけであり、他には何もしない。それらは実際にはまったく必要のないものである。 患者はそうしたものの助けを借りずに、ただ起き上がり、 私にとってはこれは何の役にも立たないということができる。 直ちに治らないような病気の形態は一つもない。
The acceptance of sickness as a decision of the mind, for a purpose for which it would use the body, is the basis of healing. And this is so for healing in all forms. A patient decides that this is so, and he recovers. If he decides against recovery, he will not be healed. Who is the physician? Only the mind of the patient himself. The outcome is what he decides that it is. Special agents seem to be ministering to him, yet they but give form to his own choice. He chooses them in order to bring tangible form to his desires. And it is this they do, and nothing else. They are not actually needed at all. The patient could merely rise up without their aid and say, "I have no use for this." There is no form of sickness that would not be cured at once.
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この箇所が言っているのは、あなたが病気になり、薬を飲んで症状が消え、気分が良くなった時、「もちろん気分が良いのは、アスピリンを2錠飲んだから、これを飲んだから、注射をしたから、あるいはプロザックを飲んだからだ」と言ったとします。それが理由で気分が良くなったと言うとしましょう。
この文章が言っているのは、気分が良くなったのはそのおかげではないということなのです。何が起こったかというと、あなたの心が決断を下したのです。病気になる、落ち込む、不安になる、あるいはどんな形の病気であろうと、その決断を下したのと同じ心が決断を下したのです。病気になる決断を下したのと同じ心が、また、何らかの理由で症状を手放す決断も下しました。 しかし私たちはこの心の力を受け入れるのがとても怖いのです。
それが皆の大きな恐怖であり、先ほども言ったように、それこそが私たちが自分の心の力を否定するために世界を作り上げた理由なのです。病気を作る心の力を否定し、病気を元に戻す心の力を否定するために、私たちは責任を外部の薬剤に投影します。「特別な薬剤が彼を助けるように見えるが、 それらは彼自身の選択に形を与えるだけである。」
頭痛が治まる理由は、アスピリンを2錠飲んだからではありません。頭痛が治まる理由は、あなたが頭痛を手放すという決断をしたからです。自分の心の力でそれを成し遂げる責任を受け入れるよりも、「アスピリンを2錠飲めば、頭痛は治まる」と言うのです。
さて、これには根底にある狂気に本当の意図があります。その意図とは、私が自分の心の力を神が見つけたら、私がやったのだと気づかれるのではないかと恐れているからです。私が分離したのだ。私が神を殺したのだ。したがって、私は自分の心には力がないと装います。そうすれば、どうして神は私を責めることができるでしょうか? 私は何もしていないし、何もできないからです。私には心がないのです。
したがって、私たち全員にとって、私たちを苦しめるものや私たちを幸せにするものについて、外部を常に責めたり、責任を押し付けたりすることが非常に重要になります。 非常に重要なセクションがあります。第27章の冒頭から数行を読んでみましょう。
警告しますが、それは恐ろしいセクションです。そのセクションは読みません。「十字架刑の絵」というタイトルです。3段落から2行を読みます。「自らが苦痛をこうむることや剥奪感を抱くことや不当に扱われることや、何かを必要とすることなどに同意する時は、いつでもあなたは兄弟を神の子を攻撃したかどで非難しているのである。あなたは十字架にかかって自分の絵を彼の眼前に掲げている。そして彼の罪があなたの血と死で 天国に記されていることや、それらの罪が彼の前を行き、天国の門を閉ざし、彼に地獄を宣告するということが彼に見えるようにしている。*」
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*訳注:T.27.Ⅰ.1-3 十字架刑の絵
不当に扱われたいと言う願望は、攻撃と無垢性を組み合わせようとする妥協的な試みである。 全く相容れないものを組み合わせ、決してつながり合えないもので統一体を作り出せる者がいるだろうか。 柔和な道を歩みなさい。 そうすればあなたは災いを恐れず、夜の影を恐れることもないだろう。 しかしあなたの道の上に恐怖の象徴を置いてはならない。 そのようなことをすれば、あなたはいばらの冠を編むことになる。 兄弟もあなた自身も、それを免れなくなるだろう。あなたは自分だけを十字架にかけることはできない。 そしてもしあなたが不当な扱いを受けるとしたら、兄弟はあなたが見ている不公平さに苦しまなければならない。 あなたは自分だけを犠牲にすることはできない。 なぜなら犠牲と全的なものだからである。 もしそれが起こりうるとしたら、それは神の被造物のすべてと愛する子を犠牲にする父なる神をも共に巻き込むことになる。
あなたが犠牲から解放されることで、彼の解放が軽減され、 犠牲からの解放が彼のものであることが示される。 しかしあなたは自分がこうむる苦痛の一つ一つを彼が攻撃という罪を犯していることの証拠とみている。 こうしてあなたは自分自身を彼が無垢性を失ったことのしるしとしてしまい、 彼はあなたを見さえすれば 彼自身は有罪宣告を受けていることがわかるということになる。 そしてあなたにとっては不公平であったものが、彼に対しては正義にかなうものとして訪れる。 あなたがこうむっている不公正な報復は、今や彼に属するものであり、 それが彼の上にあるとき、あなたは開放されるということになる。 あなた自身を彼の罪悪の生ける象徴にしたいと願ってはならない。 なぜなら、あなたは自分自身が彼のために作り出した死を免れることはできないからである。 しかし 彼の無垢性の中になら、あなたは自分自身の無垢性を見出すことができる。
自らが苦痛をこうむることや剥奪感を抱くことや不当に扱われることや、何かを必要とすることなどに同意する時は、いつでもあなたは兄弟を神の子を攻撃したかどで非難しているのである。 あなたは十字架にかかって自分の絵を彼の眼前に掲げている。そして彼の罪があなたの血と死で 天国に記されていることや、それらの罪が彼の前を行き、天国の門を閉ざし、彼に地獄を宣告するということが彼に見えるようにしている。 だがこれは地獄にされているのであって、天国にされているのではない。 天国ではあなたは攻撃を超越しており、彼の無垢性を証明している。 あなたは自分が彼に差し出すあなた自身の絵を自分自身に見せているのであり、 あなたはその絵に全幅の信を捧げる。 聖霊は彼に与えるようにと苦痛も非難も描かれていないあなたの絵を差し出す。 そして彼の罪悪に殉じさせられていたものが彼の無垢性の完璧な証人となるのである。
I. The Picture of Crucifixion
1 The wish to be unfairly treated is a compromise attempt that would combine attack and innocence. Who can combine the wholly incompatible, and make a unity of what can never join? Walk you the gentle way, and you will fear no evil and no shadows in the night. But place no terror symbols on your path, or you will weave a crown of thorns from which your brother and yourself will not escape. You cannot crucify yourself alone. And if you are unfairly treated, he must suffer the unfairness that you see. You cannot sacrifice yourself alone. For sacrifice is total. If it could occur at all it would entail the whole of God's creation, and the Father with the sacrifice of His beloved Son.
2 In your release from sacrifice is his made manifest, and shown to be his own. But every pain you suffer do you see as proof that he is guilty of attack. Thus would you make yourself to be the sign that he has lost his innocence, and need but look on you to realize that he has been condemned. And what to you has been unfair will come to him in righteousness. The unjust vengeance that you suffer now belongs to him, and when it rests on him are you set free. Wish not to make yourself a living symbol of his guilt, for you will not escape the death you made for him. But in his innocence you find your own.
3 Whenever you consent to suffer pain, to be deprived, unfairly treated or in need of anything, you but accuse your brother of attack upon God's Son. You hold a picture of your crucifixion before his eyes, that he may see his sins are writ in Heaven in your blood and death, and go before him, closing off the gate and damning him to hell. Yet this is writ in hell and not in Heaven, where you are beyond attack and prove his innocence. The picture of yourself you offer him you show yourself, and give it all your faith. The Holy Spirit offers you, to give to him, a picture of yourself in which there is no pain and no reproach at all. And what was martyred to his guilt becomes the perfect witness to his innocence.
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これを平易な英語にすれば、私たちが苦しむこと、苦痛を感じること、動揺することを選ぶのは、「見よ、兄弟よ、私はあなたの手にかかって死ぬ」と誰かに言うためだということです。あなたの罪が私の苦しみを引き起こし、証拠となり、私の苦しみがあなたの罪の証拠となることが「天に書かれる」とは、神ご自身がそれを知っているという意味です。
したがって、神は私ではなくあなたを罰し、地獄行きを宣告するでしょう。それが、私たちの人生全体の根底にある目的についての自我の視点です。ここで起こることはすべて、それを根本的な目的としています。私は苦しむので、誰か他の人が代償を払うでしょう。それは、私自身にも、神を含む他の誰にも、私が有罪であることを知られたくないという意味です。
私の心は非常に強力なので、その力が再び認識され、解き放たれると、再び天を破壊するでしょう。何度も何度も。したがって、私が生き残り、心がないふりをし、私に起こることはすべて外部要因によるものだと装うことが私の義務です。
したがって、私が病気になるのは、あなたが私を病気にしたからです。もし私が良くなるのは、この薬が私を良くしたから、あるいはこの新しい医者が私を良くしたからだ。あるいはこの新しい形の癒しが私を良くしたからだ。「形」の癒しが私を良くした。苦痛や病気の原因は私であり、その苦痛や病気を元に戻す原因も私であると内省すること以外は、何でもそうです。
この世で最も恐ろしいことは、私の心が病気の原因であり、私の心が癒しの原因であることを知ることです。なぜなら、それは私に心があり、私の心が強力であることを意味するからです。そして、この心が天を破壊したという小さな声が、私の心の中で絶え間なく囁いています。
そして、私たちはこの心を完全に切り離し、再び見たり経験したりできないようにします。したがって、私たちの喜びは化学物質や体や食べ物、あるいは何でも、それが何であれ、そこから来ると信じることが私たちにとって非常に重要です。私たちの痛みは化学物質や体や食べ物などなどから来ます。そして、私が今読んだような箇所はとてもとても重要です。
特別な薬剤が私たちを治しているように見えますが、彼らは私たちが下した決断を表現するための形になっているだけです。繰り返しますが、これは世界をあるがままに見ると意味がありませんし、すべての証拠があります。そして、証拠が言うことを否定する人は愚か者だけです。しかし、一方で、証拠が言うことを信じる人も愚か者だけです。
だから、あなたはどちらの愚か者になりたいかを選ぶことになります。 繰り返しますが、あなたが理解することが非常に重要であり、それがこのコースを非常に難しくしている理由であり、ヘレンに言わせれば、それがこのコースがごく少数の人のためのものである理由なのです。
繰り返しますが、それは5人か6人を意味するわけではありませんが、これが教えていることを見ることを本当に拒否しない、比較的少数の人のためのものです。
体は文字通り何もしません。しかし、計画の一部は、私たちが体が何かをすると信じ、体が何かを感じると信じ、体の感情が他の外部要因によって操作される可能性があると信じることです。そして、今日起こったことは、まさに自我が望んでいることです。そして、それはうまくいきます。それは完璧に機能します。そして、ついでにもう一つだけ言わせてください。
これは、あなたがそのようなことをすべきではないという意味ではありません。気分が良くなるような薬を飲んだり、何かをすべきではないという意味ではありません。ただ、自分が何をしているかを知っているような笑顔をどこかに隠しておいてください。それだけです。その小さな笑顔を持っている限り、あなたは正直であり、すべては順調です。